よい製品を低コストで・・・機械化
足で踏んで粘土を練り、手で切ったり叩いたり、天日干しのとき夕立が来れば大あわてで取り込み、また干し直す。窯焚きともなれば徹夜で火の調節。「1窯23細工」と呼ばれる瓦造りのほとんどが、昔は大変な重労働でした。
そんな中、一歩一歩山道を登るかのように機械化が進んできました。
その第一歩は手回し式の土錬機の登場です。大正4年(1915)ごろ、三州は高浜の自転車屋の原さんが発明し、すぐにこれを採用する工場が出て来ました。おそらく日本の瓦産業の機械化の先駆けでしょう。
それから2年後には松下早太郎さんという人が石油発動式の土錬機を試作し、瓦工場と協力して2年後に完成。これもすぐに活躍し始めました。
次は「荒地出し機」です。瓦の原型に合わせた荒地が機械から押し出されてくるもので、こちらは大正10年に特許がとられています。それまでは、粘土を積んで固めたタタラというものから、針金で切り削いで荒地を作っていたので、高度の熟練が必要な作業だったのが、機械でできるようになったのです。
さらにその2年後の大正12年(1923)には、手動式プレス機が登場。汽船の機関士だった半田市の石川亮治さんの考案です。今日のプレス機に比べれば、ずいぶんと手間のかかる機械でしたが、手で叩いて成型するよりはずっと能率があがり、経験の浅い人でも製品の形を揃えられるようになりました。その後、電動モーターによるプレス機もできましたが、手動式のものも戦後数年まで使われていたといいます。
昭和25年(1950)になると、土錬機と荒地出し機を一体にした「土錬・荒地出し直結機」が作られましたが、まだ荒地の水分が多くて柔らかく、干すときの扱いが大変でした。間もなく、これを改良した「固出し荒地出し機」が生れ、昭和30年には、ついに「真空土錬機」が生まれます。これは、粘土に含まれている水分を適正な状態まで抜き取って、荒地の組織を緻密に錬るもので、粘土中に空気が含まれることがないので、理想的な荒地を作り出すことが可能になり、荒地干しの手間も省けるようになりました。完成者は瓦製造の家の五男に生まれ、中学卒業後、鉄工所に就職し戦後独立した石川時平さん。この製品は屋根瓦の全国展示会で通産大臣賞を受け、普及に拍車がかかりました。現代の完全オートメーションの工場で使われている真空土錬機も、原理的には同じもので、瓦の製造工程の中で特に重要な役割を担っています。
機械化はその後、粘土の供給機、自動切断機も完成。それらを自動プレス機と連結した自動製瓦機も昭和41年(1966)には稼働し始め、現在の完全オートメーションへと続いています。
三州の瓦産業の発展は、機械化の進展とともにあったといってよいでしょう。
かつては、このように針金タタラを切っていた
かつては、このように針金タタラを切っていた
Y-6型真空土練成型機
Y-6型真空土練成型機
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