窯に瓦の白地を入れて、火力を調節しながら窯を焚き、焼けたら冷めるのを待って窯を開け、瓦を取り出す・・・という作業は、窯の形は少しずつ変わってきたにしても、日本に瓦の技術が伝来して以来、つい最近まで原理的には変化はありませんでした。 そこに革命的な窯が登場します。トンネル状の長い窯の端から台車に積んだ白地を入れると、もう一方の端から焼き上がった瓦の出てくるトンネル窯です。トンネル内部は場所ごとに温度が調整され、トンネル内のレールの上をゆっくりと台車が動いていくにつれ、瓦の温度が徐々に上がり、最高温度が一定時間保たれたのち、徐々に冷やされるようになっています。 トンネル窯は陶器の上絵付け用にフランスで18世紀の中頃に研究され、それから1世紀ののちには瓦焼成用の窯もドイツで実用化されたといいますが、日本の瓦産業ではなかなか実用化できませんでした。 三州で最初にトンネル窯を導入したのは、東洋瓦工業の黒田真一さんで、昭和26年(1951)のことでした。前年、自社の塩焼き瓦工場が全焼したのを機に導入を決意、合わせて「これからはカラーの時代になる」と釉薬色瓦をトンネル窯で焼くことにしたのです。 当時は瓦用のトンネル窯の経験のある築炉業者もなく、色瓦用の釉薬の専門メーカーもなく、工場の設計や工事から釉薬の調合まで、メーカーと一緒になって研究しながらの新しい製法への挑戦でした。最初のうちは焼いては捨ての連続だったそうです。しかしやがて、よい瓦が安定して量産できるようになり、見習うメーカーも次第に出てくるようになりました。黒田さんはトンネル窯による焼成技術を公開し、地元はもとより他の瓦産地にも技術指導に出かけました。こうした業績が認められ、昭和43年(1968)には瓦業界ではじめて、「勲五等双光旭日章」を受けています。 トンネル窯は、省力化と量産に貢献しただけでなく、もうひとつ大きなメリットをもたらしました。それまでの窯で問題だった上下の温度差による品質のバラツキが克服され、常に高品質の瓦が焼けるようになったことです。 三州でトンネル窯が急速に増えたのは、昭和34年(1959)のこと。この年、明治以降最大の台風「伊勢湾台風」におそわれ、三州の瓦工場の多くも大きな被害を受けたのですが、被害を受けた工場をせっかく復旧するなら、被害後の需要に応えられる量産体制を整えようと、トンネル窯に転換する工場が一挙に増えたのです。 なお燻し瓦は、焼成の最終段階で窯を密閉して燻しをかけることなどから、トンネル窯で焼くのは難しいと考えられていましたが、現在ではそうした問題も克服され、トンネル窯による燻し瓦の製造も盛んに行われています。 |
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